経歴
松山城下の中徒町(現在の愛媛県松山市)に生まれる。士族の家庭で、父は旧松山藩下級武士の秋山久敬で5男、母は山口家の娘貞。地元の漢学塾に学び、和歌なども習う。親友の正岡子規の上京に刺激され、愛媛県第一中学(現在の松山東高校)を中学5年にて中退、明治16年(1883年)に将来の太政大臣を目指すために東京へ行き受験準備のために共立学校(現在の開成高校)などで受験英語を学び、大学予備門(のちの一高、現在の東京大学教養学部)に入学。大学予備門では東京帝国大学進学を目指すが、秋山家の経済的苦境から真之は兄の好古に学費を頼っていたため、卒業後は文学を志して帝国大学文学部に進む子規らとは道を異にし、明治19年(1886年)に海軍兵学校に17期生として進学。明治23年(1890年)に海軍兵学校を首席で卒業し、海軍軍人となる。卒業後は少尉候補生として海防艦「比叡(初代)」に乗艦して実地演習を重ね、座礁したトルコ軍艦の生存者送還(エルトゥールル号遭難事件)にも従事する。日清戦争では通報艦「筑紫」に乗艦し、偵察など後援活動に参加。戦後には「和泉」分隊士、明治29年(1896年)年1月には横須賀に転属し、日清戦争での水雷の活躍に注目して設置された海軍水雷術練習所(海軍水雷学校)の学生となり水雷術を学び、卒業後に横須賀水雷団第2水雷隊付となる。のちに報知艦「八重山」に乗艦し、海軍大尉となる。同年11月には軍令部諜報課員として中国東北部で活動する。 明治31年(1898年)に海軍の留学生派遣が再開されると派遣留学生に選ばれるが、公費留学の枠に入れずにはじめは私費留学であった。アメリカへ留学した真之は、ワシントンに滞在して海軍大学校校長、軍事思想家であるアルフレッド・セイヤー・マハンに師事し、主に大学校の図書館や海軍文庫での図書を利用しての兵術の理論研究に務める。このとき米西戦争を観戦武官として視察し報告書を提出する。アメリカ海軍がキューバの港を閉塞する作戦を見学しており、このときの経験が日露戦争における旅順港閉塞作戦の礎となったとも指摘されている。翌 明治32年(1899年)1月にはイギリス駐在となり視察を行い8月に帰国。明治33年(1900年)には海軍省軍務局第1課員、常備艦隊参謀となる。 明治35年(1902年)には海軍大学校の教官となる。明治36年(1903年)8月に結婚。翌明治37年(1904年)に海軍少佐・第1艦隊参謀(後に先任参謀)。朝鮮半島を巡り日本とロシアとの関係が険悪化し、同年からの日露戦争では連合艦隊司令長官東郷平八郎の下で作戦参謀となり、第1艦隊旗艦「三笠」に乗艦する。旅順艦隊(太平洋艦隊)撃滅のための旅順港閉塞作戦においては先任参謀を務め、機雷敷設などを行う。ロシアのバルチック艦隊が回航すると迎撃作戦を立案し、日本海海戦の勝利に貢献、日露戦争における日本の政略上の勝利を決定付けた[1]。 明治38年(1905年)12月の連合艦隊解散後は巡洋艦の艦長を歴任し、第1艦隊の参謀長を経て大正元年(1912年)12月1日からは軍令部第1班長(後の軍令部第1部長)に任ぜられる。 大正3年(1914年)、軍艦建造を巡る疑獄事件であるシーメンス事件が起こる。事件は政府批判に発展し、また、事件に際しては秘密裁判主義に基づいているとして改正が検討されていた陸海軍治罪法の問題が再燃し、衆議院議員の花井卓蔵が賛同者を集め、軍法会議の公開などを要求。同年1月に調査委員会が設置されると、その委員の一人に指名される。3月に山本権兵衛が退陣し、大隈重信内閣が発足すると、海軍大臣には八代六郎が任命され、秋山は海軍省軍務局長として八代を補佐することとなった。秋山は軍艦建造のための臨時会議召集をはたらきかけ、予算成立に尽力する。11月に治罪法改正委員会が設置されると、花井卓蔵らと論争を行う。大正5年(1916年)2月には軍令部に転出となったため、委員は鈴木貫太郎に引き継がれる。 軍務局長時代には、上海へも寄港する軍艦「音羽」に乗艦して中国を実地見聞し、留学生の受け入れなどを提言している。また、孫文とも交流があったと言われ、非公式に革命運動を援助。小池張造らと同志を集め、革命運動を支援する“小池部屋”を結成。久原房之助など実業家に働きかける。明治44年(1911年)、辛亥革命で清朝が打倒され、中華民国が成立。大正4年(1915年)に袁世凱が皇帝に推戴されると、中国各地で反対運動が起こり、日本政府など諸外国も抗議。またこの頃、川島浪速ら大陸浪人と参謀本部田中義一参謀次長らが主導した第二次満蒙独立運動に外務省政務局長となった小池とともに加わっている。その後、軍令部転出となったため、対中政策からは離れる。 大正5年(1916年)3月には、第一次世界大戦を視察するためにヨーロッパへ渡る。朝鮮半島からシベリア鉄道へロシア、フィンランドなど東欧などを視察。5月にはイギリスへ渡り、日本海海戦を観戦したペケナム中将、イギリス艦隊司令長官のジェリコ提督らに歓迎される。フランス、イタリアに滞在したのち、翌 大正6年(1917年)9月にはアメリカへ渡り、10月に帰国。帰国後には第2艦隊の水雷司令官となるが、病状悪化もあり直ぐに辞職。同年7月には名誉職としての海軍将官会議議員となる。 大学校教官時代には、佐藤鉄太郎らが主宰していた研究会「天晴会」に勧誘され、経典を研究するようになり、晩年は霊研究や宗教研究に没頭するようになった。軍人にも信仰する者が多かった日蓮宗に帰依。また、神道家の川面凡児に師事して神道研究を行い、二人で皇典研究会を設立。 勢力拡大期にあった新興宗教の大本教には海軍機関学校教官の浅野和三郎との親交も縁となり入信、綾部参り等を行ったが信仰ではなく神道研究が目的であったとも言われる。 後には仏教研究に戻り、生涯特定の宗教に帰依したりはしなかったようである。大正7年(1918年)に死去する直前には般若心経を唱えていたという。 晩年は腹膜炎を煩って箱根で療養に努めたが、のちに悪化して小田原の山下亀三郎別邸にて死去。享年49。 墓所は東京都港区の青山墓地。 |